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新宿の顧問弁護士なら弁護士法人岡本(岡本政明法律事務所)

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コラム - 最新エントリー

一   O.J.シンプソン裁判

1.     刑事事件と民事事件で異なった結論

(1)   アメリカ、ロスアンジェルスやサンフランシスコに行き、O.J.シンプソン裁判を視察しようとしたことは前回話しました。
 この事件を例にして、分かりにくい「無罪推定原則」について説明しましょう。「推定無罪」という本も出版されていますし、同名の映画もあるくらいですが、何だろうなと思われていてはいけません。
 当コラムでも当たり前のように使ってきた言葉ですから。

(2)   OJ.シンプソンは、刑事事件では「世紀の裁判」によって無罪になりました。しかし残念ながら民事裁判では殺人を認定する判決が出て、遺族に対して損害賠償することになりました。
 OJ.シンプソンは刑事事件では弁護団「ドリームチーム」に依頼し、5億円は払ったと言われております。しかし本を出版したりして大分稼ぎ返したそうですが、民事事件では弁護団「ドリームチーム」に支払うお金を倹約し別の弁護士に依頼したと言われております。でも民事事件で8億円以上のお金を支払ったのでは割に合いません。
 二つの結論に違和感をもたれませんか?
 二つの結論の違いは、無罪推定原則があるからと言ってよいでしょう。もっとも法理論ではなく、刑事裁判では有色人の陪審員で占められていたこと、民事では白人の陪審員が多かったことの差異であるなどという論評もありますが。

2.     「推定無罪」とは

(1)   「推定無罪」とは、有罪と認定されるまでは無罪と推定されるという近代法の原則を言うとされています。刑事訴訟法第336条「被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言い渡しをしなければならない」という条文も同様の趣旨であります。
 つまり有罪になる事実の提示は、国つまり検察官に責任があるという原則なのです。証明責任と言ってもよいでしょうが、検察官に「合理的疑いを超える程度まで証明する責任がある」ということを意味します。難しい議論をするつもりはありません。とにかく法律家は公知の事実とか、事実上推定される事実とか種々論じますが、最終的には「常識」でしかありません。前のコラムでも紹介しましたが、司法修習生の皆さんが信頼しえない結論を出すこともあるのです。皆さん、既に「国民の常識」に自信をもっておられますよね?

(2)   推定無罪は「疑わしいときは被告人の利益に」とも言い換えます。OJ.シンプソンは、刑事事件では疑問があっても、経験則に照らして「殺したね」とまで言えなかったので無罪になったのです。引き換え、民事裁判では双方が出してきた証拠、つまりその事実からOJ.シンプソンに分が悪いねという比較のうえでの相対評価なのです。つまり損害賠償を請求しているご遺族の提出された事実のほうに真実性があると陪審員が判断したということです。噛み砕き過ぎていると感じられる方は法律の入門書を読んでください。
 私のコラムでは、裁判における判断は専門教育を受けていなくとも出来るという最良の証明材料として、OJ.シンプソン事件を引き合いに出して説明してみました。

(3)   蛇足かもしれませんが、私は、優秀な弁護士とは、その証拠即ちその事実を見つけ出してくる「粘り」にあると以前から本コラムで書いております。事実認定能力などという特殊な能力を匂わせる弁護士を信用してはなりません。判断に資する材料・証拠を「種々の工夫をして集め」、それを相手方・裁判所に提出し、しかもそれを「分かるように主張することができる」という事実が大切なのです。
 今回で裁判員制度のコラムは終わりますが、「国民の常識は司法に適さない」と言われる元裁判官の方々の論評に呆れる私の気持ちを理解していただけるでしょうか?「素人のラフジャッジ」などという法律家は鼻持ちならぬエリート意識の固まりだと思います。

二   国民の司法参加こそ重要

国民の司法参加が不要という批判は、結論から言ってしまいますが、全て「お上」に任せてしまえばいいという流れになります。
 現在の裁判所の実態を暴露する本の一冊でもお読みになれば、とても許されない結論になるでしょう。日本も随分民主主義が育ってきました。しかし「絶望の裁判所」から読みとれることは民主国家であるなどと胸を張って言えない裁判所が現実だということなのです。
 上記事実は、行政に「えこひいき」をしているとしか理解しえない行政訴訟の認容率からでも直ちに分かることです。日弁連が出しております「自由と正義」(本年8月号)によっても「実質的な勝訴率となると(国から発表されている)グラフ2の数値(2012年は9.8%だそうです)から、さらに一段階低く数%になると推測される」(24頁)と書いております。行政訴訟を考えますと瀬木元裁判官が言われる「絶望の裁判所」がひしひしと伝わってくるのです。

三 まとめ

 司法権も権力行使の一部であるという事実は争いようがないのですから、やはり国民の監視下にあらねばなりません。行政権や立法権だけでなく、司法権の独占も恐ろしいのです。
 このように考えませんと、言いたいことも言えない戦前の国家制度に戻ることまで危惧されるのです。
 立派な裁判官の方には「我々は、あなたを支えるために一緒になって裁判を行います。安心してください」と伝えましょう。

 

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一 裁判員裁判における国民の負担とは
 
 国民の負担が過大という批判は制度論なのか? 
(1) 次に、制度論に関係する批判として「国民の負担が大きい、人権侵害だ」という論点です。
この論点に関しては、既に最高裁判決(平成231116日大法廷判決)も出ておりますが、残念ながら、今後も繰り返し訴訟等で蒸し返されるものと思われます。
そもそも上記論点については、現在裁判員にかかる負担内容やその程度を検討することにより克服できるはずだと既に当コラムで書いております。しかし、上記主張をされる方は、残念ながら弁護士にもおられます。したがって、今回上記論点を再吟味してみましょう。
国民の司法参加を理念とする限り、避けて通れないジレンマですが、結論から言いますなら、現時点では、負担軽減の工夫をすることによって弊害を減らす方向で十分であると考えられます。最高裁判決にまで触れませんが、それで十分納得いただけると思います。
 
(2)  各国の陪審裁判における「国民の負担」を見て回りましたが本当にすごいものもあります。負担などと言う言葉の埒外でした。
一例を挙げましょう。「世紀の裁判」といわれる「O.J.シンプソン裁判」を実際に見るため、ロスアンジェルスにとびました。無罪評決の日から丁度1週間遅れました。行く前から分かっていたことですが、日本と全く違い、裁判公開法廷は全て専門テレビ局のブラウン管を通して世界中で見られました。しかし負け惜しみでなく、弁護団「ドリームチーム」の驚くべき話等を聞けたことは、その後の自らの刑事裁判でも役に立ったと思っております。
「世紀の裁判」では、陪審員が選任されたのは1994117日、陪審員が世間から隔離されたのは翌年の111日からです。隔離は知人、新聞或いはテレビ等に影響されないようにするものですが、陪審員の評決が下されるのは約10カ月後の102日なのです。陪審員で解任された者は10名にも及び、陪審員は長期間ホテル住まいまで強制されました。これも民主主義だというと怒られるかもしれませんが、これほどでなくとも「国民の負担」は大変なのです。
 
(3)  以前、コラムで「国民の義務」だと書いたことについては反省しております。これは国民の権利行使の側面から論じるべき話でした。
心配になった理由ですが、裁判員になることも「国民の義務」と説明しますと、兵役の義務(徴兵制)や憲法改正にまで議論が発展しそうです。義務論では安倍総理(石破さんか?)に利用されそうで嫌なのです。国民主権者として権利行使の側面から論じましょう。
 
2 死刑判決の評議は負担か
 (1)   本年519日、日本経済新聞は「裁判制度 揺れる死刑」と題して裁判員制度が始まって5年、これまでの死刑判決は21件があり、高裁が死刑判決を破棄したものは3件であると報じています。
 
(2)   早速「袴田事件を裁いた男」、副題として「無罪を確信しながら死刑判決文を書いた元判事の転落と再生の46年」と付けられた本を読みました(朝日文庫新刊)。でも元判事の苦悩は分かりませんでした。元判事は、死刑判決でなくても「転落」されていたのではないでしょうか。「転落」は他に原因があるようにしか読めません。
 
(3)  我々隣人が、死刑判決も必要だと認めるなら(法律があるなら)、誰かが死刑だと言い渡さないといけません。しかし死刑判決を言い渡すことは自分の主義・信条に反するから、拒否すると宣言されるなら、それもありでしょう。その方に不利益が発生するのかどうかは別にして個人の自由です(不利益を負わせない工夫は別の論点)。しかし憲法違反という批判には法治主義からは何処にも論理性が見出されません。しかしそれでも主張される方は、死刑廃止論を主張されるべきです。この論者の弁護士が死刑廃止に熱心だとは聞きませんし、証拠の見せ方の工夫等も提案されておりません。変です。
 
二 その他の問題点

1 その他の批判としては、事件の問題点が表面化されない仕組みになっていること(特に公判前整理手続)、裁判員が量刑に関与すること、裁判員に対する種々の負担(守秘義務等)等多々あります。これらは現行制度の修正として論じることが可能です。裁判官の説示は重要ですし、裁判の仕組みを知ってもらう体制づくりも重要です。私は高等学校に出前で裁判員制度を説明するため回ったこともあります。

2 各国の司法制度を見てきましたが、いずこの国においても幾つもの問題点が指摘されていました。全て満足などと言う制度はそもそも存在するはずがないのです。臨機応変の対応がなされるのは当然のことであり、その工夫が必要なことは「国民の常識」です。

3 前項にて述べました工夫ですが、司法制度改革推進本部時代に裁判員制度を中心になって提言された平良木登規男先生(ドイツ視察でご一緒しました)、四宮啓先生(O.J.シンプソン裁判を視察に行った際、当時カリフォルニァ大学バークレー校にて陪審裁判研究のために留学されていてお世話になりました)あたりに再度論陣を張っていただき、自ら提言されたことの総括をしていただきたいと思います。

4 逃げている訳ではありません。お二人の先生と著名な佐藤博史弁護士、森谷和馬弁護士と私が、東大総長であった平野龍一先生の研究室に呼ばれ、6名で新たな裁判制度を議論した日のことを思い出します。

「国民の負担論」はそれほど世間の納得を得ておりませんので、お二人に期待して前記事項の工夫をお願いすることで十分でしょう。  

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一 普通の人が裁判できるのか?
 
1 裁判員制度に対する根本の批判
(1)  種々議論がなされる今日、裁判員裁判を論じることは本当に難しい。
先ず裁判員裁判制度の批判の内容を整理する必要があります。制度として認められないという根本的批判と、現行制度の見直しで問題点を克服できる批判とに区分する必要があります。
(2)  制度として認められないという(民主主義の根幹を前提にする)批判については多少触れてきましたが、その詳細を検討しましょう。
 その一つが「裁判という法的判断は国民の常識でなしえない、司法の判断は国民の常識に馴染まない」という論点です。「国民の常識」と言われても漠然としていて意味不明です。しかし上記主張をされる方は元裁判官を始めとして意外に目につきます。司法権としての機能から法制度の在り方を論じられているのでしょう。
 
2 「法律の素人」でも有罪・無罪の判断はできる
 「国民の常識」は駄目だと言われているのですから、多分「裁判は専門教育を受けた者でないとできない」と言われているのでしょうね。
裁判官、別に弁護士でも同じですが、彼らに特別な能力があると認定されている訳ではありません。法律を熱心に勉強してきただけです。そもそも、被疑者が有罪か?無罪か?については(これを事実認定と言い、大仰に「事実認定能力」という人もいます)、特別な能力が要求される根拠はないのです。法廷に出される事実つまり証拠から考え、常識的に言って「犯罪をやっているのかどうか」の判断をするだけです。事実認定は経験則即ち常識です。特別教育など不要であり、常識を前提にし、示された事実から「当該犯罪をやったかどうか」を判断するものです。上記論者(元裁判官・弁護士等法曹以外に本論者はいないはず)は、常識以外の何か特殊能力を持っておいでなのですか?
 
 
二 「国民の常識」に関する私の経験
 
 旧陪審裁判の経験者の回答
 以前のコラムで「陪審裁判(旧陪審の証言と今後の課題)」という本を紹介しましたね。この本の中で旧陪審に関与された方々にアンケートを取った回答結果が記載(59頁)されております。

「陪審員の事実認定能力については、45件の回答中、『職業裁判官に比べて優れている』及び『遜色なし』とする回答が21件もあり、『職業裁判官に比べて劣っている』との回答(8件)を大きく上回っている」との結果が報告されております。

上記アンケートに応じられた方は元裁判官の方が圧倒的に多いのですが、上記8名の方に「劣っている」根拠を聞かねばなりません。実は、私も昔、重いテープレコーダーを持って旧陪審の裁判体験を聞きまわった経験があります。それ程多数の方からお聞きした訳ではありませんが、陪審員の「常識」を疑う人はおられませんでした。むしろ事前にきちんとした「裁判官説示」がなされるなら、事実認定に問題はないと述べておられました。つまり元裁判官の方がどのような「説示」をされたのか?お聞きしたい。説示こそ重要なのです。裁判官は、事前に裁判の手順や進行だけでなく、裁判に関する判断の仕方、つまり常識による判断だということを説明します。説示によって「常識」で判断できることを教えられるのです。
 
2 模擬陪審裁判で示された「国民の常識」
(1)   私は、国民の司法参加を実現するべく幾度も模擬陪審法廷を開いております。銀座ガスホールで行った時は私が被告人役を演じました。私の事務所の副所長が中学生でしたが、この模擬陪審法廷を見に来てくれました。被告人役の私が無罪になった際、彼がテレビ局からインタビューされるというハプニングもありました。
 
(2)  模擬陪審裁判の台本作りも幾度かやりました。判断しにくいように証拠に変化を加え、証言も曖昧になるよう工夫を加えました。有罪無罪が判断しにくいように工夫をしたのです。ある時、事実認定力を実験するためと称し、陪審員団を3種類作ったこともあります。つまり?元裁判官で現在弁護士をされているグループ、?市民と言われる一般の方のグループ、?司法修習生のグループの三グループです。
 
(3)  この三グループは別個に審理し、全く異なった判断をしました。
裁判官を経験された弁護士グループは文字通り有罪無罪半ばという結論(これも変)で、結局多数決で無罪でした。「市民」と言われる一般の方の陪審員団は争いもなく無罪でした。ところが驚いたことに司法修習生の陪審員団は反対が殆どなく、断定的に有罪なのです。
一般の方々は、説示に従い、無罪推定の原則を厳格に守られたのです。だから当然無罪になりました。司法修習生という、つまり法教育を受けた方の事実認定にこそ問題があったのです。しかし何故司法教育を受けている人たちが、このような判断をされるのでしょうか?事実認定に際して法律の知識が邪魔をするとしか言いようがありません。本当に不思議ですが、幾度か同じ経験をしました。その一つが、季刊刑事弁護51996125日号10頁に紹介されております。
以上により明らかなことは、寧ろ法の知識に邪魔をされない一般人のほうが、法律を一生の仕事としようと決意をされた司法修習生より優秀だと言う結論になります。上記の本では「裁判官の目」と「市民の目」では同じ事実も「違って見える」と論評していますが、さらに職業人の判断も信用ならないと言ってほしいものです。

 

  「国民の常識」という論点が如何に漠然としたものであり、且つ根拠も示しえない批判かということが明瞭に分かります。

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 一 「陪審教徒」と「参審主義者」の歴史的和解の旅

1 第一東京弁護士会会報(平成98月号)

(1)     上記会報において、私は「デンマーク裁判所視察の成果」の題名のもと「陪審裁判制度論者と参審裁判制度論者の邂逅」と副題をつけて、デンマーク裁判制度を視察した一文を寄せております。同国では、両制度が矛盾なく円滑に運用されており、これまでわが国ではその詳細がつまびらかにされていなかった制度だったことから、参加者の皆が驚いた経験をしました。少し長くなりますが紹介しましょう。

(2)     「デンマークの裁判は、陪審裁判と参審裁判の両制度を採用し、同時に職業裁判官のみの裁判をも併用する特異な司法制度をとっております。誤解を恐れず率直に申し上げますと、あまり多くを期待しないで出かけた私には、大変学ぶところの多い視察でした。
 これまでわが国の刑事裁判において、国民の司法参加を考える場合、陪審裁判が採用されるべきか参審裁判が採用されるべきか、まるで二者択一の如くに論じてきた我々にとって、まさしく画期的な旅行ではなかったかと推察しております。
 即ち各制度がうまく運用されているデンマークの実態に触れ、これまで陪審・参審制度をそれぞれの立場から、他方を排他的に主張してきた我々のなかで、両制度の主張が融合されるかもしれないという予想がたった画期的な旅行でありました。
 具体的に申し上げますと、国民の司法参加を積極的に実現させようと考える弁護士グループの中には、私が冗談に「陪審教徒」とお呼びする友人の方々、もう一方の弁護士グループで「参審主義者」とお呼びする皆様の歴史的な和解・融和がなされるのではないかと期待しうる程の成果をあげたのであります。」

(3)     詳細をお知りになりたければ、当時の視察記録として「デンマークの陪審制・参審制 なぜ併存しているのか」(日本弁護士連合会司法改革推進センター及び東京三弁護士会陪審制度委員会編 現代人文社)をお読みいただければいいのですが、本書は250頁に及ぶ力作になりますので纏めとしては、前項私の視察報告書が適当でしょう。
 「私たちは、これまで陪審・参審制の双方を勉強の課題として各国を巡ってきましたが、我々の間では双方の制度が互いに相容れない制度として論じられてきた傾向がありました。
 特に、国民の司法参加としては参審制が理想の形ではないかと信じる私の立場に対して、保守反動のごとき批判がなされることもございました。陪審制主張の論者の中には、時にしてこのような性癖の方もおられ、私なりの反論もしてまいりましたが、最近は面倒臭くなってきたというのが正直な感想であります。即ち本視察旅行が色あせ始めていたのです。
 私個人としては、司法制度に関する国民の司法参加について他の制度目的をも考慮にいれ、多少でも切り口を変えれば、陪審制のみが至上の制度でないということは明白だと考えております。

  陪審裁判が至上の制度か?

(1)     陪審裁判は「隣人による裁判」であります。アメリカのように多種の民族が共存するモザイク国家では、他人に対する自由の制限・束縛は、裁判という仕組みを通し、隣人の認定によってのみなすことができるのです。結論から言うなら、自由であるべき他者を束縛するためには、隣人による裁判と言う仕組みによってのみしか認められないというのが民主主義なのです。自由はその限度でのみ制限されるという納得に基づいて隣人と共存し、誰もが生存できるというのが人類の知恵であります。これが法として整理され、法治主義にまで論理が発展するのです。
 であるなら多数に溶け込んでいる人々は、シンパシーを共有されることが可能な「隣人と言う裁判官」によって裁判手続を受けることが可能です。しかし隣人と縁の少ない人、即ち、何らかが隣人と異なる少数者は、隣人と言う裁判官のシンパシーを享受することができません。「冤罪」はこのような理由から発生することが多いのです。

(2)     日本の文化と比較しますと、アメリカの権力に対する国民監視の認識はやはり圧倒的に進んでおります。日本の官僚に対する批判を、日本の資料からは明らかにしえず、アメリカの公文書を検証して、逆にその事実を示しえた経験からも明白な事実です。
 アメリカでは証拠を保存しております。DNA鑑定の技術が進歩し、保存されていた証拠を再検証したところ(日本で出来ますか?)服役している人々の中から、何と冤罪が311件にも上るという報告もあるくらいです。それを題材にした小説もありますが、散漫になるので紹介しません。
 冤罪の多くが隣人と異なる少数者だと言えば驚かれませんか。皮膚の色が異なる人、或いは共産主義者のレッテルを張られた方々がその中心になるのです。陪審裁判の弊害の一つがここにあります。

(3)     ここで絶対に紹介しなければならない制度がデンマークの陪審制ダブル・ギャランティの制度なのです。デンマークでは冤罪の危険を回避するため、二重の保障(ダブル・ギャランティ)と言う制度を取り入れております。陪審員が有罪とした場合に、職業裁判官が事実に基づき証拠が不十分と判断したときは無罪とすることができるのです。逆の陪審員の無罪判決には裁判官も拘束されるというのですから、推定無罪の原則が貫徹され、冤罪の防止に寄与します。
 我々の視察時、偶然陪審有罪評決を裁判官が破棄するというデンマークで三度目の場面に遭遇したのです。翌日のデンマークの新聞もすごかったが、我々の興奮度をお伝えできないのが残念です。 

 

二 「自分の生き方は自分が決める」と言う方は少数者?

皮膚の色が違うという方は日本では少ないが、しかし時の権力者に抑圧される考え方をするかもしれないという皆さん!(それを宗教や思想と言うこともできる)、弾圧する側と同じ思考パターンの多数者に判断を委ねる「隣人の裁判」を受けたいでしょうか?
 私は生粋の日本人ですが「自分の生き方は自分が決める」という日本の文化人が生き様とする家庭のもとで育ちました。他人と違うということは気にはなりますが、生き方までは変えたくありません。シンパシーのない隣人に裁判されるくらいなら「事実のみを証拠とし、その事実のみから結論を推測し、その推測の過程は法律のみに基づいて裁判」をしてほしいのです。もちろん自己の責任は引き受けるつもりですが・・。
 一方、判決と言う結果は、国という権力により担保されています。ですから裁判といえども、国民の批判にさらされる必要があります。

陪審裁判について、私のような懸念を漏らされる日本の弁護士は残念ながら存じ上げません。

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一 裁判員裁判制度を論じることは政治的な題材か?
 
1 政治的な題材は嫌い
(1)  前回紹介した小説「法服の王国(上、下)」では実名で多くの方が登場します。代議士として実名で登場されているご子息に、大変お世話になりました。この方からは、私の司法試験に対する姿勢を根本において矯正していただきました。この方なくして、私は実務家としての在り方を意識できなかったでしょう。
昔の私は、当時の学生運動の華やかな時代に即応して、十分に政治に埋没しておりました。大学に行かなくなってからも、卒業したのかどうか分からないモラトリアム人生でした。東京都美濃部知事選挙当時、受験生だった友人の下宿先で答案の書き方の話をしていながら、「こんなこと、やっていていいのか」と無性に怒りを感じたことが昨日のようです。学生時代に引きずられた毎日でした。確かに答案練習会には出ましたし、答案を議論する仲間もできてきましたが、一方徹夜麻雀や労働組合関係の支援もしておりました。30代直前の列島改造ブームの頃には、丁度サラリーマンでしたから、石油ショックで経済が沈没するまで、「下品ないい思い」も経験しました。
 
 (2)  法律を教えてもらった「この方」との出会いですが、30歳の結婚を契機に、真面目に司法試験を受験するしかなくなった私が、当時有名な中村法律研究所に合格し、始めて集団で司法試験の勉強を始めた最初の頃です。研究室には、当初背広で通って笑われました。
入室すぐに論文指導があって、その方から「あなたのような学生運動の延長上で書いた論文では絶対に受からない。政治的な思考が出ています」と言われ、細かい指導を受けました。ビックリしました。もっとも「何故活動家だって言えるの?」とは思いました・・。この方は後に山口県から社会党の代議士になられたくらいなので、きっと同じ過去をもっておられたのでしょうね。今でも当時の指導の詳細を覚えております。
 
(3) それからは理念ではなく実務家たらんと努力しました。法の枠から出てはいけないと自戒しました。何時の間にか政治的な思考と実務家の区別も分かり始めてきたように思います。
意識したことは「事実(裁判では証拠)から立論し、その事実から推論はするが、事実から飛躍はしない。その推論の過程は法律による」というものです。このような区別を意識する必要がなく容易に司法試験と言う暗記勉強のできる人も私の周りにはたくさんおられました。このような秀才、言葉を換えれば器用な方は、頭はいいのでしょうが私は好きではありません。詳しくは書きたくありません。つまり、私は「法服の王国」の著者のようにはなれません。
こんな経験から、本コラムでは政治的な話は書きたくないのです。
 
2  裁判員制度を論じることは政治的でしょうか?
司法とはいえ、制度なのですから、「あるべき論」から考えると、やはり政治的議論だと判断しております。しかし許されるという立場から見ますと、司法制度の設計なのですから、司法に携わる我々実務家が議論に参加することには意味がある、否、義務があるはずです。
誰も関心を示さなかった当時、世界の司法制度を見て廻り、且つ模擬陪審裁判に没頭した昔の自分を振り返りますと、やはり実務にのみ埋没できなかった自分は「三つ子の魂百まで」だなと実感します。
当事務所副所長は、このコラムに対して言いたいことはあるでしょうが、陪審裁判と参審裁判の両方を取り入れているデンマークの裁判制度を説明するなら許してもらえるでしょう。今から考えますと、このデンマーク視察報告書なくして現在の裁判員裁判制度は生まれなかったのではないでしょうか。このように推測される事実も後に説明しましょう。
 
二 裁判員制度に対する批判
 
 種々の批判
 批判の内容を調べますと制度の根幹に対する批判は殆んどありません。不思議ですね?
多くの批判は制度論と言うより、国民の負担が大きいというような弊害に対する疑問提起が中心です。これは司法制度の在り方に対する批判と言うより、弊害をなくする工夫によって乗り越えられるものです。
もっとも陪審制を提案される方からの批判は、国民の司法参加という理念において共通しており、デンマークの司法制度を見ていただくなら批判になどなりえないのです。諸国の司法制度を共に視察された先生方は、国民の司法参加の態様によって、その国がどの程度の民主主義か分かるとまで感じておられるはずです。
裁判官内情暴露本の一つだと判断されます「絶望の裁判所」(瀬木比呂志著 講談社現代新書)では、このような趣旨において陪審制の主張をされております。この点において、買って、読んで良かったというのが私の感想です。
 
2 国民の負担が大きいか?   
    民の負担が大きいというような批判は私の体質に合いません。そもそも私は多くの事件を通じて、日本においても自分だけ良ければいいという雰囲気になっていることに危惧を感じております。隣の大国の国民のように、自分さえよければよいという自己中心主義の世界は嫌なのです。
       私は、司法という場を裁判官による独占から排除する制度こそが必要であると信じて世界の裁判制度を調査して廻りました。そしてその経験から、国民の負担が大きいなどと言って甘えることは許されないと思います。これは裁判に関与する各国の参加者も話していたことです。国民の負担は、結局は民主主義の深まりによって論じられることだと思います。その例の一つですが、デンマーク視察に行く前年、当事者主義訴訟構造での参審裁判の実態を見たいと考え、スウェーデンを視察しました。スウェーデンでは、日本では不十分な行政監察制度であるオンブズマン制度が機能しており、参審制度とよくマッチしておりました。
 
3 再度国民の義務論
私は、裁判員になることも「国民の義務」だと考えています。自力救済?のコラム、私の大学時代の憲法答案のような「落ち」になります。しかし、それでも国民の負担として過重だと言われるなら、国民の負担を減らす工夫をされるべきではないでしょうか。素人に量刑を決めさせることが問題だと言われるなら、この論点をクリアする陪審制度を一部取り入れることすら可能なのです。国民の司法参加と言う視点において、陪審制と参審制が対立しない裁判制度であることを、殆どの弁護士は知ろうともしません。
 
4 最後に付加しておきますが、国民の常識が信用できないという批判は根本がおかしい。裁判は法に基づいて行うものであり、恣意に行うものではありません。この批判は、裁判がどういうものかという中学校レベルの教育の問題であり、ひいては常識がないとされる親や友人に唾するものであります。親や友人に常識がないなら、民主主義など語らないでください。

次回(その3)は待望の「デンマーク視察」ですが、この調子ですと、次々回(その4)は「国民の常識」がテーマにならざるを得ませんね。 

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一 「狂った裁判官」と言う本(幻冬舎新書)
 
1 裁判官の内情を描く

(1) 裁判官の実態を明らかにする本が、最近顕著に増加しています。特に裁判官が普通のサラリーマンと変わらず、しかも権力に弱い司法官僚であり、最高裁の司法行政に振り回される内幕を暴露する本が世間受けしているようです。

例えば、少し古いが「裁判官―お眠り私の魂」(朔立木著 光文社文庫)、新しい本では「裁判官が日本を滅ぼす」(門田隆将著 ワック出版)があり、今回問題にする「狂った裁判官」は同系列の本です。
小説ではありますが、実在の裁判官(多くが実名)を登場させる「法服の王国(上、下)」(黒木亮著 産経新聞出版)は面白かった。吹き荒れた東大闘争後、理念を追いかけた裁判官や司法修習生の実際の話、或いは私が弁護士になってからのことも思い出しました。殺人事件で刑事部担当部長として対峙した「当時の有名裁判官」に対する記述には感じ入りました。私の経験と合致したのです。私は、その裁判官が法廷において人として尊敬できない対応をされたことに対して、弁護士としてその指示には従いませんでした。裁判官を批判的内容で登場させながら、実名とは! 著者の度胸に驚きます。

(2) 同じ暴露本のつもりであろう「狂った裁判官」と言う本はカスです。読んで損をしました。「内容がむちゃくちゃ」と批判すると「価値感が違いますからね」という元エリート裁判官からの反論も予想できますので、実務家として失格と言う事実を示します。

168頁「裁判官は、司法試験、法科大学院、司法修習等を経た法律のプロですが、裁判員は法律の素人です。法律の素人が裁判所の構成メンバーとなるのは、日本では初めてです。戦前も戦後も、裁判所は法律のプロである裁判官だけで構成すると決まっています。」
上記の事実は虚偽です。

彼は、多分、心底では自分を勉強家であると思われているでしょうが、わが国で陪審裁判が行われていた事実すら勉強されていない事実に呆れます。わが国陪審法は、大正12年制定、昭和310月に施行、同184月に停止されております。

上記陪審制度は多くの欠陥があったと言われながらも、審理事件総数484件、うち無罪81件と言う結果を生んでいるのです。これらの事実は、多少権威のある本なら記載されている事実ですが、今後、当コラムでは「陪審裁判(旧陪審の証言と今後の課題)」(東京弁護士会編集 ぎょうせい出版)という書籍を参考にして紹介しましょう。
 
 「狂った裁判官」と言う本は矛盾だらけ

(1)  ひどい裁判官が多いという内情暴露はいいでしょう。だから「狂った裁判官」という表題で本を出版されたのでしょうから。

でも何故、現在運用されている裁判員制度を批判されるのでしょうか?「狂った裁判官」だけで裁判をしていいのか本気でお聞きしたい。
172頁「裁判員制度を作った動機として、よく裁判官は常識がないから裁判員を送り込んで常識のある裁判をするのがよいなどと説明されます。そうすると、裁判員制度は、法律はそっちのけにして、常識に基づく裁判をやろうというのでしょうか」(めちゃくちゃな論理)
173頁「結局、裁判員の入った裁判所は、何ら基準がなく、多数決で何でも出てくることになります。裁判の予測など、もちろんできません。めちゃくちゃ裁判の始まりです」
“君!国民にとって「狂った裁判官」が裁判するより、素人のほう がよっぽどましではないのですか?”

(2) 本コラムで、餓鬼みたいな低次元の論争をするつもりはありません。

もっとも彼もまともなことも言っており、それこそが根幹なのです。
175頁「司法とは、単に、裁判をやっていればよいのではなく、立法府や行政府の権限の乱用により侵害された国民の人権を回復するという重要な役割があります。その役割を実行するためには、民意からは一定の距離を保って法令のみに基づいて判断する裁判官が是非とも必要となります」
彼は、まともなことも言っておりながら、彼自ら司法行政に負けたというのです。162 頁「浅生所長のした裁判干渉もまたご多聞に漏れず、誰もいない横浜地裁所長室で 行われました」と言うのです。
“君!司法行政に屈する裁判官の姿とは君なのですか。”
こんな裁判官に国民の権利が守れるでしょうか。そもそも司法の最大の役目は、彼の言うとおり、立法府や行政府による権限の乱用から国民を守るということです。これが民主主義の根幹なのです。
 
二 裁判員裁判の理念
 
    「狂った裁判官」を書かれたエリート元裁判官も指摘されている通り、立法府や行政府の権限の乱用により侵害される国民の権利を守ることこそが司法の独立の根幹なのです。だから素人である国民が参加する司法制度こそ、司法官僚の独裁から解き放なたれる司法制度設計なのです。司法行政にひれ伏す裁判官よりも、自由な立場の国民が司法の場に参加してこそ上記権限の乱用を防止し、それ故に司法の独立が守られます。立派な裁判官もおられますが、その場合でも裁判の運用等の全てを素人即ち国民の目にさらすことによって、裁判官に“狂わない”でもやっていける環境を作る、逆に、裁判官が「国民に守られている」という自意識をもたせることに意味があるのです。

 もっともこれだけが裁判員裁判の趣旨ではありません。暫くは本コラムで、私の経験について書きたいと思います。 

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一 我が国の法律は自力救済を否定するのか
1 自力救済は法律も是認している

(1) 刑法講座と言う大変有名な本の第二巻を読んでみましても、民法での占有訴権については触れられているものの(民法第2022項)、反対に解釈される竹木の根の自力切除権(民法第2332項)については触れられておりません。民法第2332項を素直に読めば自力救済を認めた規定と読まざるを得ないはずです。学者の先生の価値観で考え方が変わります。価値観が問われるため書きにくい論点なのでしょうね。

 STAP細胞の小保方先生、理科学研究所の偉い先生方、最後にはノーベル受賞者を巻き込む近時の大騒動には事実主義を標榜する我が事務所では呆れてしまうだけですが、自力救済或いは自救行為の論点においても学者の先生には迷走があります。私は楽しんで読んでいるだけですが、学者の先生をめった切りにする研究論文も面白いでしょうね。前回のコラムで書いた私の憲法期末試験のように、学界からは無視されるだけでしょうが。

(2) 自力救済を書かれる研究者、つまり学者の先生には言っておきたいことがあります。

自力救済を認めない理由として、裁判所が国民から司法権を任され、その裁判所が是か非かを問う場合の唯一の判断機関であるということを前提にされておりますね。そして当然これらを法治主義で説明されますね。であるなら破産事件で苦しんできた私にとって言いたいことがあります。税務署の滞納処分は自力救済そのものではないですか?結論を言いますと「法律に定めがあるから、裁判所の判断を得ないで自力執行が認められる。これを自力救済規定と言う」と解説して下さい。自力救済の解説で、何故これも書かれないのでしょうか?
学者の先生の解説では見つからず、面倒なのでネットで調べてみましたら、フリー百科事典ウィキペディア、自力救済の項目ですぐに見つかりました。「国税滞納処分は自力執行権である」と記載されております。つまり自力救済の思考は根本において認めざるを得ない概念であり、我が国の法律でも随所に採用されております。
自力救済は、依然として根強く我々の価値観を形成しているのです。

(3) 安倍総理大臣が集団的自衛権を唱えるのも、自力救済の必要性を強く認識しているからでありましょう。私の大学時代の「やんちゃ」な姿を見る思いです。しかしながら、何とか自力救済を先に延ばそうとか、最後の最後まで発動させないようにしようなどという工夫がありません。

安倍総理は「やはり危ない、無邪気すぎる」と感じられるようになったのは、少しは私も大人になったのでしょうか。
 
 安倍総理と同様、自力救済の思想で育ち、後に分かったこと

(1)  私の思い

弁護士のコラムなのですから、判例を最初に書いてほしいと言う気持ちは分かります。しかし私は、私の学生時代、自力救済を合言葉のように唱えていた時代を書きたかったのです。学生時代は、安倍総理とは逆の意味で、国民側からの目線のつもりで、反権力が合言葉でした。国民の自由を守るためには、権力と対峙する必要があり、自ら体を張って異議の申立をしないと真の国民主権は成り立たないと考えていたのです。しかし年寄りになって、逆に危険であることに変わりはないと気付きました。まず自力救済を発動させない工夫をしなければならないのです。共産主義的思考に絶望したことも「大人?」になれた原因でしょうかね。
いずれにしても、当時のやり方では碌な世の中にならないと言う意味で・・。ある人から、分かるのが遅すぎると言われましたが・・

(2) そもそも民主主義は、暴力で解決することを排除した思想です。暴力は、最後は人命を失ったりすることで、割りが合わないという合理的思考から生まれました。政治思想もこれを根源としています。そして他者の自由を侵害するような事項については、多数決により決めることにした人類の知恵が、現実主義に即して思想となったのです。本コラムを読んでくれている若い方々、興ざめしませんか。

しかし私の学生時代は、自力救済を唱える時代だったのです。自己責任を自覚するなら、それはそれで自分の肌合いにぴったりでありました。しかし自力救済は相互に恨みを残し、また恨みは続き、未解決となり、経済的にも、否、精神的にも合理的ではありません。
 
二 判例紹介とその射程範囲
 
 1 判例は、当初、自力救済と言うだけで既に否定的でした。
自力救済の可能性を認めた判例は昭和301111日の最高裁判例が有名です。事件の内容は、他人所有の玄関間口8尺程度を切り取った自救行為です。最高裁は当該行為について適法とは認めませんでした。しかし具体的な事情によっては自救行為として認められる場合もあるとその可能性を述べたのです。
自力救済を認めた横浜地裁判例も紹介します(昭和6324日)。
マンションの前で、3か月間も車が停められていたので、住人が再三に渡り車名義人にどけるよう督促を繰り返しました。しかし名義人は応じませんでした。故意による放置と判断した住人はやむなく車を処分してしまったと言う事案です。裁判所は、本件については「やむを得ない特別の事情がある」として車名義人からの損害賠償請求を認めませんでした。
以上からも分かりますが、当初の賃貸借のコラムで紹介しましたとおり、「やむを得ない特別の事情」を認める判例は少ないのです。
 
2 自力救済のコラムを終えるにあたって
 
  若い弁護士の先生。自力救済を論じられる姿勢は本当に素晴らしい。しかし自力救済は相手方に禍根を残すこともあります。さらには懲戒になってはたまりません。「やむを得ない特別の事情」の発動ですから、十分に事件内容を吟味してください。そしてやる時には勇猛果敢に!
今回は私がずっと考えてきたテーマを纏めてみました。書き上げてから、本コラムの内容を副所長に話しました。
副所長から、自力救済は抵抗権かと質問されました。私は、自力救済は人類の持つ自然権であり、抵抗権にも通じると話しました。副所長から、お客さんが増えそうもない哲学は、本コラムに意味がない旨のお話もいただきました。
でも「こんなことを書いていないと楽しくない」と返しました。
 

    

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一 国際司法裁判所
 
1 国際捕鯨取締条約
 
(1)  自力救済の最終稿を書こうとしていたところ、「調査捕鯨で日本が敗訴」の報道がありました(本原稿は41日着手)。結論は別にして、国と国の紛争も「裁判でけりをつけられる」形が定着するということは、「経済的に割のよい一つの解決手段」を選択したという意味において評価すべきことだと思われます。裁判でけりをつけるということは、我々のように法による解決を専門職業とする弁護士にとっては当たり前のことですが、国家間の紛争では、いまだ常識にはなっておりません。自力救済論争の根本はここにあります。
今回のテーマである国の自力救済から話がとびますが、「鯨食」は日本の伝統文化だという日本の反論にも違和感があります。だって鯨を食べた記憶ははるか昔のことで、貧しかったためだけに食した記憶です。裁判では他国も納得する他の論点に焦点を絞るべきだったように思います。弁護士に求められる資質である「粘り」が、今回の司法裁判では全く感じられません。前々回のコラム、3「子の奪い合い」を読んでください。私が代理人になりましょうかと申出したい位です。
 
(2)  話を戻します。国際司法裁判所の登場とは何とラッキーなのでしょうか。今回のテーマである「自力救済」に関する究極の論点、「国家間の紛争解決」の仕組みが説明しやすくなったと喜んでおります。そういえば前回のテーマである「不動産は放棄できない」という題材においても新たな論点が出てきました。現在、私は、裁判所の依頼を受けて極度に珍しい破産管財業務を行っております。都下のある地域において、先の戦争直後から放置されたままの遺産を処理しております。主としては当該地域に存する不動産の整理ですが、事務所を挙げて取り組んでおります。何と「不動産は放棄できない」という論点に新たに付加しなければならない発見もありました。早く付加したいのですが、来年度まで書けません。それまでこの破産管財業務は終わらないからです。
国際司法裁判所のおかげで自力救済の掲載も一回増えました。
 
 2 戦争は典型的な自力救済
 
(1)   察しの良い方は既にお分かりでしょうが、国と国が争う戦争はまさしく「自力救済」以外の何ものでもないのです。裁判所の利用などあり得ない世界なのですから、救済手段は、究極的には暴力、つまり殺し合い、そして戦争と言う人類にとって最も効率の悪い方法に発展する可能性を有しております。最近問題になっている尖閣列島を考えなくても戦争は自力救済そのものなのです。
 
(2)  我が国の法学界は自力救済を毛嫌いしております。学者の先生方の解説書を読みまくりましたが、自力救済そのものを法の世界の異端児として放逐したがっていることがよく分かります。「不動産の放棄」でも同じことを感じましたが、「自力救済」についても全く同じです。
偉い学者の先生方も半端だと、しみじみ考えざるをえません。私にとって、学者の偉い先生方も、私の悩みと、それ程差がないことに気が付いたということが、本コラムを書き始めた最大の収穫でしょうか。自力救済規定を詳細に定めるドイツの国とは大分様相を異にしており、学者の先生方の論調も各人で違い、その主張にも深さがありません。この辺は次回のコラムに譲ります。
 
二 私が何故「自力救済」に関心を持つのか?
 
1 私の学生時代
 
(1)  私が「自力救済」について書こうと思い至った理由は、そろそろ法律の枠からはみ出た自分の思考過程・価値観を書いてもいいのではないかと思い始めたことにあります。
 
(2)  私は高校二年生の夏、60年安保で亡くなった樺みち子著「人知れず微笑まん」を読んで震えました。両親に、どうしても大学つまり都会に出てみたい、家業は弟に譲るからと大学進学を頼みました。我が故郷は、狭い町を外れると田が広がる田園地帯ですが、我が家は不在地主の家であったものの、当時の田舎並みに経済は厳しく、不遇の時代を迎えておりました。でも両親は進学させてくれました。
 
(3)  大学は一年生の時には多少授業に出席しましたが、二年生からは自慢ではありませんが、語学少々とラクビー少々の授業以外一度も出ておりません。当時の私の雰囲気をお話しするいい題材があります。
法律を売りにする大学に入ったのですが、法律については教えてもらったとは思っておりません。さすがに一年目で憲法の授業があり、当初は出席しましたが、高校レベルの講義でしかありませんでした。期末試験で「国民の義務について述べよ」と出題されました。私は十分に国民の三大義務を述べた後、当時の私の信念であったスローガンである「国民の生活の実力防衛」義務についても付加して論じました。驚いたことに結果は不可でした。
弁護士になった現在も、私の解答で出題の意図は十分こなしていたと考えております。学生時代、既に大学教授が採点しているとは思っておりませんでしたが、その狭い思考態度に呆れ、学問を標榜するならもっと自由であるべきだと思いました。
私の反省点は、憲法第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」を引用したものの、憲法上の根拠づけの展開が不十分だったということです。幸福追求権(憲法第13条)、国民主権(前文及び第1条)、基本的人権の本質(第97条)まで歴史・沿革を述べ、究極の自力救済義務までに敷衍させるべきだったということです。
 
2 自力救済的思考
 
  私は法律の勉強はしませんでしたが、司法試験受験生と同じくらい本を読み、自由に考  え、学んだつもりです。
いずれにしましても、学生時代は自力救済を是とする「やんちゃな学生」だったのです。
     続きは次回にします。
 
 

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一 小説の上手な組み立て方―自力救済を題材にする
 
1 前回紹介した本
(1) 「弁護士が悩む家族に関する法律相談」という本で書いた事例3「離婚に伴う婚姻費用・養育費・財産分与」の項で、村上春樹著「1Q84」を読んで訂正するべき内容も出てきたと書きました。
私の書いた部分、46ページの記載です。「そもそも控訴審は憲法20条信仰の自由を巡る論争でした。憲法論争に負けたと感じた私には大変な衝撃でした。しかしA女は「親方(意味不明ですが)の仰ることですから」と淡々と受け入れた姿勢に対し、私は敗訴判決以上に衝撃を受けたことを今でも鮮明に覚えています」というものです。
「親方」ではありませんでした。「1Q84」を読んで分かったのですが「親方」は「お方様」だったのです。「1Q84」には『さきがけ』と言う新興宗教団体を登場させていますが、私の依頼者は「お方様」と言う根源的な出会いを経て、結婚以上の幸せを勝ち取られたのだと今では思います。私は彼女からいただいた手縫いのガウンを今でも愛用しております。離婚後、布教活動をされる幸せそうなご様子には、宗教を信じないと豪語する私ですら羨ましかったものです。
ところで余計な話で申し訳ないが、私は控訴審から受任して勝訴に導いた経験が極めて多い弁護士です。つい先週も東京地裁判決を高裁でひっくり返し、最高裁で確定したばかりです。
この事実は私を追っかけしてくれていたある有名国立大学教授も認めておられる事実です。そもそも「粘り」は才能であると言う標語を若手弁護士に語るぐらいですから、敗訴の経験は極めて少ないことをお断りしておきます(「子供みたい」と言われても主張します)。
 
(2) 驚きましたが、「1Q84」には、前回書きましたドメスティックバイオレンス事件(家庭内暴力事件、即ちDV事件)の自力救済がテーマの一つになっておりました。
 DV事件の経験のある老婦人が、DVで苦しめられている女性を救うためにDVをする男性をこの世から抹殺してしまうという展開がされております。主人公の女性は老婦人から殺人を請け負うのですが、まさしく自力救済が問題となるストーリー作りでありました。
 自力救済と言う同様なテーマが小説になっていたことで「1Q84」を紹介した訳ですが、6巻もあって読みにくいですね。新興宗教独特の思考パターンの展開もあり、村上春樹の世界は、ますます自己没入型という印象を受けました。しかし特別な味があります。
 
2 葉真中顕著「ロストケア」という小説
(1) この小説も現在の高齢化社会をとらえる小説としては、紹介に値するものと確信しております。本小説も自力救済を題材にとっている小説で、老人を介護する家族を守ることを目的にして、その介護を受ける老人を43人も殺してしまうと言うまさしく壮絶な本なのです。
 
(2) 口頭では私の知合いの何人かにこの本を紹介しました。これからの超高齢化社会、介護の在り方等種々考えさせられる本でありました。私の事務所の図書箱にも常置しております。
 
  作家宮部みゆき
(1)  私の父は、93歳で亡くなる前、自分の机の上に宮部みゆき著『火車』という本を開いたままにして旅立ちました。何時か、何かの形でこの話を残しておきたいと思っておりました。
 
(2) 『火車』は消費者金融の世界をテーマにしております。破産するべき一人の女性が他の女性になりすますなどして生き抜く姿を追うもので、法に通暁した話が満載された小説です。父は、こんな難しい話を読んでいるのかと驚きました。彼女の作品は、社会のひずみを、その時の社会的テーマで切り取る手法で構成されるものが多いです。
消費者金融の取立て事例が判例として検討され、民事判例索引集では民法709条の自力救済の項で出てくるのですから、まんざら今回のテーマと無関係ではありません。
 
(3) 宮部みゆきの本はあらかた読んでおりますが、自力救済に関係する話としては、直ぐに「理由」が出てきます。この本の主人公は、いわゆる占有屋(通常、強制競売されそうな建物に入り込んで、立退き料等を請求する危ない人たちを我々はそう呼びます)の話しでした。この占有屋を裁判でなく実力で追い出せば自力救済の話になることは賃貸借の項で既に説明済みです。
 
(4) すごい本だと思ったものとして、昨年12月に発刊された新本「ペテロの葬列」があります。この本は豊田商事の話を基本にして書かれております。この小説の最後に、参考資料として「豊田商事事件とは何だったのか 破産管財人調査報告書記録」が上がっているので驚きました。宮部みゆきは裁判所で記録の閲覧謄写までして破産資料を入手されているのだろうと驚きを感じております。
 
二 面白い小説には自力救済を題材にしたものが多い
 
  小説の組み立てに自力救済を題材にしたものが何と多いことかと驚きませんか?でも私には、自力救済の切羽詰まった程度の話しでは感動できません。人の本質に迫らないとだめですね。
前述の「ペテロの葬列」は、《事件もの》の枠を超えております。人間の本質を追及しています。最後の落ちが不満だという意見には私も賛成ですが・・。
  我々の生活は前の項目で如何に小説の材料が多いかをお教えしました。昨年は、若い先生と大沢在昌の著書で小説の書き方を読み合いましたが、弁護士より小説家になるほうが圧倒的に大変だと思いました。

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一 「子の奪い合い」は身近な事例
 
1 出版された本の紹介
(1) 「弁護士が悩む家族に関する法律相談」という本を出版した際の  ベテラン弁護士の嘆きを紹介し「子の奪い合い」をテーマにした自力救済について話してみたいと思います。「子の奪い合い」はハーグ条約にも関係する自力救済を論じる上での恰好のテーマなのです。今回、ハーグ条約は論じませんが、国際結婚した日本女性が、婚姻破綻後、アメリカから日本に子供を連れ帰り、子供に会えないアメリカ男性は数百件もあるという報告があるそうですが、「本当ですか」と言いたくなりますよね。これを「拉致」と言うんだそうです。
 
(2) 話がそれました。上記の本は、昨年3月、日本加除出版から第一東京弁護士会の法律相談センターによって、主として若手弁護士に向けたエールとして出版されました。私は、かつて法律相談センターの委員長をしていた関係から、始めは編集委員として旗振りをしておりました。しかし編集や座談会等の雑務は若い先生方に任せてしまえばいいということで編集委員から降ろさせていただいた経緯があります。
そのような経緯から、事例3「離婚に伴う婚姻費用・養育費・財産分与」及び事例20「弁護士倫理と遺言執行」は私が全文を書いております。事例3では、村上春樹著「1Q84」を読んで訂正するべき内容も出てきましたが、面白いテーマにも結びつきますので次回に紹介しましょう。
 
(3)ここで何故弁護士向け専門書を紹介するかを説明します。つまり、この本の出版に際して、私の後の法律相談委員会委員長であるベテラン弁護士が嘆いていた内容をお教えすればよいのです。即ち、自救行為乃至自力救済と言う言葉の持つ意味が、弁護士の成長度を測る測定機のような関係にあることを理解いただけると思ったからなのです。
 
2 別居時の子の奪い合い
(1)  あなたは自分の子が自分から引き離されることに我慢ができるでょうか?
別居時、夫の暴力から逃れるため、命からがら身一つで家を出たが、置いてきた子供を奪い返したいという相談はドメスティックバイオレンス事件(「家庭内暴力事件」、これを「DV事件」といいます)の担当になると通常よくある話なのです。
私の委員長時代には、DV事件は社会的に問題となり、暴力から逃れる妻のために、妻を保護するシェルターまでも用意されるようになりました。子供をおいて暴力から逃れる妻が、「ほっ」と一息ついて、置いてきた子供をどうしても連れてきたいと弁護士に相談したら、あなたが弁護士なら「連れ出してくる」ことに協力するのではないでしょうか?これが誘拐になるのでしょうか?
少し考えてみてください。子供を実力で奪った夫を誘拐罪で処断した最高裁の判例(最高裁判決平成17126)もありますから。
 
(2)  ベテラン弁護士の問題意識はここにあります。
この本の総仕上げである座談会で(巻末に載せられています)、現委員長である司会者より問題提起がありました。その問題提起は、まさしく「子の奪い返し」について相談があったらどうしますかというものであったのです。
当然、司会者は難しい問題だと思っての問題提起だったのでしょうが、元委員長のベテラン弁護士は、女性を可哀そうだと考え、その子の幸せを考えるなら懲戒覚悟で闘うのだと発言したのだそうです。ところが若い先生方から反発を受けたそうです。私は出席しませんでしたが、自力救済には否定的だったのでしょうね。本当に面白いですね。私は、このベテラン弁護士や司会をされた現委員長よりは圧倒的なお爺さんですから、思わず「にやり」というところでしょうか。
2乃至3日程度しかたっていないなら自力救済は認めてもいいと言う結論で上記座談会は体裁を整えて発刊されました。事実を検証されたい方は是非買って読んでください。
 
(3) 離婚の際、審判で子供の親権をとっても、子供を奪い返す直接強制が困難なことなど、子供を巡る問題は本当に難しい。
でも子供を奪い返すことが、母にとって必要な場合も多くあるでしょう。私は男ですから、母の愛なくして生きられないとまで思います。女性と少し違うのかもしれませんが、幼少期の母の愛は絶対的なものではないでしょうか。
2年程経ちますかね。男性弁護士が別居して3か月以上でしたか?子供を奪った事件がありました。この場合、男性の子供に対する愛は分かりますが、自己の庇護のもとで子供を育てていた原状がないのですから、自力救済とは言えません。誘拐罪で逮捕されました。
 
二 「自力救済」への反応は、サラリーマン弁護士かどうかの測定機
 
弁護士でない皆さん、付き合いたい弁護士はどちらでしょうか。
前述のベテラン弁護士に「自力救済は、一人前の弁護士になったかどうかの測定機だね」と話し、今回私のコラムで自力救済を書こうと思うという話をしました。その弁護士は私のコラムに自分の実名を載せていただいて構いませんとまで話され、熱く賛同の言葉を述べられました。
ベテラン弁護士は若手弁護士のサラリーマン化を憂えておられます。ベテラン弁護士の思いは私も同じです。紹介しましょう。
「簡単に諦めてはいけない。何とかしようという『粘り』こそが、弁護士にとって必要な資格だと思う」。
次回は「自力救済と小説」について書いてみます。

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