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コラム - 201409のエントリ

一 裁判員裁判における国民の負担とは
 
 国民の負担が過大という批判は制度論なのか? 
(1) 次に、制度論に関係する批判として「国民の負担が大きい、人権侵害だ」という論点です。
この論点に関しては、既に最高裁判決(平成231116日大法廷判決)も出ておりますが、残念ながら、今後も繰り返し訴訟等で蒸し返されるものと思われます。
そもそも上記論点については、現在裁判員にかかる負担内容やその程度を検討することにより克服できるはずだと既に当コラムで書いております。しかし、上記主張をされる方は、残念ながら弁護士にもおられます。したがって、今回上記論点を再吟味してみましょう。
国民の司法参加を理念とする限り、避けて通れないジレンマですが、結論から言いますなら、現時点では、負担軽減の工夫をすることによって弊害を減らす方向で十分であると考えられます。最高裁判決にまで触れませんが、それで十分納得いただけると思います。
 
(2)  各国の陪審裁判における「国民の負担」を見て回りましたが本当にすごいものもあります。負担などと言う言葉の埒外でした。
一例を挙げましょう。「世紀の裁判」といわれる「O.J.シンプソン裁判」を実際に見るため、ロスアンジェルスにとびました。無罪評決の日から丁度1週間遅れました。行く前から分かっていたことですが、日本と全く違い、裁判公開法廷は全て専門テレビ局のブラウン管を通して世界中で見られました。しかし負け惜しみでなく、弁護団「ドリームチーム」の驚くべき話等を聞けたことは、その後の自らの刑事裁判でも役に立ったと思っております。
「世紀の裁判」では、陪審員が選任されたのは1994117日、陪審員が世間から隔離されたのは翌年の111日からです。隔離は知人、新聞或いはテレビ等に影響されないようにするものですが、陪審員の評決が下されるのは約10カ月後の102日なのです。陪審員で解任された者は10名にも及び、陪審員は長期間ホテル住まいまで強制されました。これも民主主義だというと怒られるかもしれませんが、これほどでなくとも「国民の負担」は大変なのです。
 
(3)  以前、コラムで「国民の義務」だと書いたことについては反省しております。これは国民の権利行使の側面から論じるべき話でした。
心配になった理由ですが、裁判員になることも「国民の義務」と説明しますと、兵役の義務(徴兵制)や憲法改正にまで議論が発展しそうです。義務論では安倍総理(石破さんか?)に利用されそうで嫌なのです。国民主権者として権利行使の側面から論じましょう。
 
2 死刑判決の評議は負担か
 (1)   本年519日、日本経済新聞は「裁判制度 揺れる死刑」と題して裁判員制度が始まって5年、これまでの死刑判決は21件があり、高裁が死刑判決を破棄したものは3件であると報じています。
 
(2)   早速「袴田事件を裁いた男」、副題として「無罪を確信しながら死刑判決文を書いた元判事の転落と再生の46年」と付けられた本を読みました(朝日文庫新刊)。でも元判事の苦悩は分かりませんでした。元判事は、死刑判決でなくても「転落」されていたのではないでしょうか。「転落」は他に原因があるようにしか読めません。
 
(3)  我々隣人が、死刑判決も必要だと認めるなら(法律があるなら)、誰かが死刑だと言い渡さないといけません。しかし死刑判決を言い渡すことは自分の主義・信条に反するから、拒否すると宣言されるなら、それもありでしょう。その方に不利益が発生するのかどうかは別にして個人の自由です(不利益を負わせない工夫は別の論点)。しかし憲法違反という批判には法治主義からは何処にも論理性が見出されません。しかしそれでも主張される方は、死刑廃止論を主張されるべきです。この論者の弁護士が死刑廃止に熱心だとは聞きませんし、証拠の見せ方の工夫等も提案されておりません。変です。
 
二 その他の問題点

1 その他の批判としては、事件の問題点が表面化されない仕組みになっていること(特に公判前整理手続)、裁判員が量刑に関与すること、裁判員に対する種々の負担(守秘義務等)等多々あります。これらは現行制度の修正として論じることが可能です。裁判官の説示は重要ですし、裁判の仕組みを知ってもらう体制づくりも重要です。私は高等学校に出前で裁判員制度を説明するため回ったこともあります。

2 各国の司法制度を見てきましたが、いずこの国においても幾つもの問題点が指摘されていました。全て満足などと言う制度はそもそも存在するはずがないのです。臨機応変の対応がなされるのは当然のことであり、その工夫が必要なことは「国民の常識」です。

3 前項にて述べました工夫ですが、司法制度改革推進本部時代に裁判員制度を中心になって提言された平良木登規男先生(ドイツ視察でご一緒しました)、四宮啓先生(O.J.シンプソン裁判を視察に行った際、当時カリフォルニァ大学バークレー校にて陪審裁判研究のために留学されていてお世話になりました)あたりに再度論陣を張っていただき、自ら提言されたことの総括をしていただきたいと思います。

4 逃げている訳ではありません。お二人の先生と著名な佐藤博史弁護士、森谷和馬弁護士と私が、東大総長であった平野龍一先生の研究室に呼ばれ、6名で新たな裁判制度を議論した日のことを思い出します。

「国民の負担論」はそれほど世間の納得を得ておりませんので、お二人に期待して前記事項の工夫をお願いすることで十分でしょう。  

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一 普通の人が裁判できるのか?
 
1 裁判員制度に対する根本の批判
(1)  種々議論がなされる今日、裁判員裁判を論じることは本当に難しい。
先ず裁判員裁判制度の批判の内容を整理する必要があります。制度として認められないという根本的批判と、現行制度の見直しで問題点を克服できる批判とに区分する必要があります。
(2)  制度として認められないという(民主主義の根幹を前提にする)批判については多少触れてきましたが、その詳細を検討しましょう。
 その一つが「裁判という法的判断は国民の常識でなしえない、司法の判断は国民の常識に馴染まない」という論点です。「国民の常識」と言われても漠然としていて意味不明です。しかし上記主張をされる方は元裁判官を始めとして意外に目につきます。司法権としての機能から法制度の在り方を論じられているのでしょう。
 
2 「法律の素人」でも有罪・無罪の判断はできる
 「国民の常識」は駄目だと言われているのですから、多分「裁判は専門教育を受けた者でないとできない」と言われているのでしょうね。
裁判官、別に弁護士でも同じですが、彼らに特別な能力があると認定されている訳ではありません。法律を熱心に勉強してきただけです。そもそも、被疑者が有罪か?無罪か?については(これを事実認定と言い、大仰に「事実認定能力」という人もいます)、特別な能力が要求される根拠はないのです。法廷に出される事実つまり証拠から考え、常識的に言って「犯罪をやっているのかどうか」の判断をするだけです。事実認定は経験則即ち常識です。特別教育など不要であり、常識を前提にし、示された事実から「当該犯罪をやったかどうか」を判断するものです。上記論者(元裁判官・弁護士等法曹以外に本論者はいないはず)は、常識以外の何か特殊能力を持っておいでなのですか?
 
 
二 「国民の常識」に関する私の経験
 
 旧陪審裁判の経験者の回答
 以前のコラムで「陪審裁判(旧陪審の証言と今後の課題)」という本を紹介しましたね。この本の中で旧陪審に関与された方々にアンケートを取った回答結果が記載(59頁)されております。

「陪審員の事実認定能力については、45件の回答中、『職業裁判官に比べて優れている』及び『遜色なし』とする回答が21件もあり、『職業裁判官に比べて劣っている』との回答(8件)を大きく上回っている」との結果が報告されております。

上記アンケートに応じられた方は元裁判官の方が圧倒的に多いのですが、上記8名の方に「劣っている」根拠を聞かねばなりません。実は、私も昔、重いテープレコーダーを持って旧陪審の裁判体験を聞きまわった経験があります。それ程多数の方からお聞きした訳ではありませんが、陪審員の「常識」を疑う人はおられませんでした。むしろ事前にきちんとした「裁判官説示」がなされるなら、事実認定に問題はないと述べておられました。つまり元裁判官の方がどのような「説示」をされたのか?お聞きしたい。説示こそ重要なのです。裁判官は、事前に裁判の手順や進行だけでなく、裁判に関する判断の仕方、つまり常識による判断だということを説明します。説示によって「常識」で判断できることを教えられるのです。
 
2 模擬陪審裁判で示された「国民の常識」
(1)   私は、国民の司法参加を実現するべく幾度も模擬陪審法廷を開いております。銀座ガスホールで行った時は私が被告人役を演じました。私の事務所の副所長が中学生でしたが、この模擬陪審法廷を見に来てくれました。被告人役の私が無罪になった際、彼がテレビ局からインタビューされるというハプニングもありました。
 
(2)  模擬陪審裁判の台本作りも幾度かやりました。判断しにくいように証拠に変化を加え、証言も曖昧になるよう工夫を加えました。有罪無罪が判断しにくいように工夫をしたのです。ある時、事実認定力を実験するためと称し、陪審員団を3種類作ったこともあります。つまり?元裁判官で現在弁護士をされているグループ、?市民と言われる一般の方のグループ、?司法修習生のグループの三グループです。
 
(3)  この三グループは別個に審理し、全く異なった判断をしました。
裁判官を経験された弁護士グループは文字通り有罪無罪半ばという結論(これも変)で、結局多数決で無罪でした。「市民」と言われる一般の方の陪審員団は争いもなく無罪でした。ところが驚いたことに司法修習生の陪審員団は反対が殆どなく、断定的に有罪なのです。
一般の方々は、説示に従い、無罪推定の原則を厳格に守られたのです。だから当然無罪になりました。司法修習生という、つまり法教育を受けた方の事実認定にこそ問題があったのです。しかし何故司法教育を受けている人たちが、このような判断をされるのでしょうか?事実認定に際して法律の知識が邪魔をするとしか言いようがありません。本当に不思議ですが、幾度か同じ経験をしました。その一つが、季刊刑事弁護51996125日号10頁に紹介されております。
以上により明らかなことは、寧ろ法の知識に邪魔をされない一般人のほうが、法律を一生の仕事としようと決意をされた司法修習生より優秀だと言う結論になります。上記の本では「裁判官の目」と「市民の目」では同じ事実も「違って見える」と論評していますが、さらに職業人の判断も信用ならないと言ってほしいものです。

 

  「国民の常識」という論点が如何に漠然としたものであり、且つ根拠も示しえない批判かということが明瞭に分かります。

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