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コラム - 201407のエントリ

一 裁判員裁判制度を論じることは政治的な題材か?
 
1 政治的な題材は嫌い
(1)  前回紹介した小説「法服の王国(上、下)」では実名で多くの方が登場します。代議士として実名で登場されているご子息に、大変お世話になりました。この方からは、私の司法試験に対する姿勢を根本において矯正していただきました。この方なくして、私は実務家としての在り方を意識できなかったでしょう。
昔の私は、当時の学生運動の華やかな時代に即応して、十分に政治に埋没しておりました。大学に行かなくなってからも、卒業したのかどうか分からないモラトリアム人生でした。東京都美濃部知事選挙当時、受験生だった友人の下宿先で答案の書き方の話をしていながら、「こんなこと、やっていていいのか」と無性に怒りを感じたことが昨日のようです。学生時代に引きずられた毎日でした。確かに答案練習会には出ましたし、答案を議論する仲間もできてきましたが、一方徹夜麻雀や労働組合関係の支援もしておりました。30代直前の列島改造ブームの頃には、丁度サラリーマンでしたから、石油ショックで経済が沈没するまで、「下品ないい思い」も経験しました。
 
 (2)  法律を教えてもらった「この方」との出会いですが、30歳の結婚を契機に、真面目に司法試験を受験するしかなくなった私が、当時有名な中村法律研究所に合格し、始めて集団で司法試験の勉強を始めた最初の頃です。研究室には、当初背広で通って笑われました。
入室すぐに論文指導があって、その方から「あなたのような学生運動の延長上で書いた論文では絶対に受からない。政治的な思考が出ています」と言われ、細かい指導を受けました。ビックリしました。もっとも「何故活動家だって言えるの?」とは思いました・・。この方は後に山口県から社会党の代議士になられたくらいなので、きっと同じ過去をもっておられたのでしょうね。今でも当時の指導の詳細を覚えております。
 
(3) それからは理念ではなく実務家たらんと努力しました。法の枠から出てはいけないと自戒しました。何時の間にか政治的な思考と実務家の区別も分かり始めてきたように思います。
意識したことは「事実(裁判では証拠)から立論し、その事実から推論はするが、事実から飛躍はしない。その推論の過程は法律による」というものです。このような区別を意識する必要がなく容易に司法試験と言う暗記勉強のできる人も私の周りにはたくさんおられました。このような秀才、言葉を換えれば器用な方は、頭はいいのでしょうが私は好きではありません。詳しくは書きたくありません。つまり、私は「法服の王国」の著者のようにはなれません。
こんな経験から、本コラムでは政治的な話は書きたくないのです。
 
2  裁判員制度を論じることは政治的でしょうか?
司法とはいえ、制度なのですから、「あるべき論」から考えると、やはり政治的議論だと判断しております。しかし許されるという立場から見ますと、司法制度の設計なのですから、司法に携わる我々実務家が議論に参加することには意味がある、否、義務があるはずです。
誰も関心を示さなかった当時、世界の司法制度を見て廻り、且つ模擬陪審裁判に没頭した昔の自分を振り返りますと、やはり実務にのみ埋没できなかった自分は「三つ子の魂百まで」だなと実感します。
当事務所副所長は、このコラムに対して言いたいことはあるでしょうが、陪審裁判と参審裁判の両方を取り入れているデンマークの裁判制度を説明するなら許してもらえるでしょう。今から考えますと、このデンマーク視察報告書なくして現在の裁判員裁判制度は生まれなかったのではないでしょうか。このように推測される事実も後に説明しましょう。
 
二 裁判員制度に対する批判
 
 種々の批判
 批判の内容を調べますと制度の根幹に対する批判は殆んどありません。不思議ですね?
多くの批判は制度論と言うより、国民の負担が大きいというような弊害に対する疑問提起が中心です。これは司法制度の在り方に対する批判と言うより、弊害をなくする工夫によって乗り越えられるものです。
もっとも陪審制を提案される方からの批判は、国民の司法参加という理念において共通しており、デンマークの司法制度を見ていただくなら批判になどなりえないのです。諸国の司法制度を共に視察された先生方は、国民の司法参加の態様によって、その国がどの程度の民主主義か分かるとまで感じておられるはずです。
裁判官内情暴露本の一つだと判断されます「絶望の裁判所」(瀬木比呂志著 講談社現代新書)では、このような趣旨において陪審制の主張をされております。この点において、買って、読んで良かったというのが私の感想です。
 
2 国民の負担が大きいか?   
    民の負担が大きいというような批判は私の体質に合いません。そもそも私は多くの事件を通じて、日本においても自分だけ良ければいいという雰囲気になっていることに危惧を感じております。隣の大国の国民のように、自分さえよければよいという自己中心主義の世界は嫌なのです。
       私は、司法という場を裁判官による独占から排除する制度こそが必要であると信じて世界の裁判制度を調査して廻りました。そしてその経験から、国民の負担が大きいなどと言って甘えることは許されないと思います。これは裁判に関与する各国の参加者も話していたことです。国民の負担は、結局は民主主義の深まりによって論じられることだと思います。その例の一つですが、デンマーク視察に行く前年、当事者主義訴訟構造での参審裁判の実態を見たいと考え、スウェーデンを視察しました。スウェーデンでは、日本では不十分な行政監察制度であるオンブズマン制度が機能しており、参審制度とよくマッチしておりました。
 
3 再度国民の義務論
私は、裁判員になることも「国民の義務」だと考えています。自力救済?のコラム、私の大学時代の憲法答案のような「落ち」になります。しかし、それでも国民の負担として過重だと言われるなら、国民の負担を減らす工夫をされるべきではないでしょうか。素人に量刑を決めさせることが問題だと言われるなら、この論点をクリアする陪審制度を一部取り入れることすら可能なのです。国民の司法参加と言う視点において、陪審制と参審制が対立しない裁判制度であることを、殆どの弁護士は知ろうともしません。
 
4 最後に付加しておきますが、国民の常識が信用できないという批判は根本がおかしい。裁判は法に基づいて行うものであり、恣意に行うものではありません。この批判は、裁判がどういうものかという中学校レベルの教育の問題であり、ひいては常識がないとされる親や友人に唾するものであります。親や友人に常識がないなら、民主主義など語らないでください。

次回(その3)は待望の「デンマーク視察」ですが、この調子ですと、次々回(その4)は「国民の常識」がテーマにならざるを得ませんね。 

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一 「狂った裁判官」と言う本(幻冬舎新書)
 
1 裁判官の内情を描く

(1) 裁判官の実態を明らかにする本が、最近顕著に増加しています。特に裁判官が普通のサラリーマンと変わらず、しかも権力に弱い司法官僚であり、最高裁の司法行政に振り回される内幕を暴露する本が世間受けしているようです。

例えば、少し古いが「裁判官―お眠り私の魂」(朔立木著 光文社文庫)、新しい本では「裁判官が日本を滅ぼす」(門田隆将著 ワック出版)があり、今回問題にする「狂った裁判官」は同系列の本です。
小説ではありますが、実在の裁判官(多くが実名)を登場させる「法服の王国(上、下)」(黒木亮著 産経新聞出版)は面白かった。吹き荒れた東大闘争後、理念を追いかけた裁判官や司法修習生の実際の話、或いは私が弁護士になってからのことも思い出しました。殺人事件で刑事部担当部長として対峙した「当時の有名裁判官」に対する記述には感じ入りました。私の経験と合致したのです。私は、その裁判官が法廷において人として尊敬できない対応をされたことに対して、弁護士としてその指示には従いませんでした。裁判官を批判的内容で登場させながら、実名とは! 著者の度胸に驚きます。

(2) 同じ暴露本のつもりであろう「狂った裁判官」と言う本はカスです。読んで損をしました。「内容がむちゃくちゃ」と批判すると「価値感が違いますからね」という元エリート裁判官からの反論も予想できますので、実務家として失格と言う事実を示します。

168頁「裁判官は、司法試験、法科大学院、司法修習等を経た法律のプロですが、裁判員は法律の素人です。法律の素人が裁判所の構成メンバーとなるのは、日本では初めてです。戦前も戦後も、裁判所は法律のプロである裁判官だけで構成すると決まっています。」
上記の事実は虚偽です。

彼は、多分、心底では自分を勉強家であると思われているでしょうが、わが国で陪審裁判が行われていた事実すら勉強されていない事実に呆れます。わが国陪審法は、大正12年制定、昭和310月に施行、同184月に停止されております。

上記陪審制度は多くの欠陥があったと言われながらも、審理事件総数484件、うち無罪81件と言う結果を生んでいるのです。これらの事実は、多少権威のある本なら記載されている事実ですが、今後、当コラムでは「陪審裁判(旧陪審の証言と今後の課題)」(東京弁護士会編集 ぎょうせい出版)という書籍を参考にして紹介しましょう。
 
 「狂った裁判官」と言う本は矛盾だらけ

(1)  ひどい裁判官が多いという内情暴露はいいでしょう。だから「狂った裁判官」という表題で本を出版されたのでしょうから。

でも何故、現在運用されている裁判員制度を批判されるのでしょうか?「狂った裁判官」だけで裁判をしていいのか本気でお聞きしたい。
172頁「裁判員制度を作った動機として、よく裁判官は常識がないから裁判員を送り込んで常識のある裁判をするのがよいなどと説明されます。そうすると、裁判員制度は、法律はそっちのけにして、常識に基づく裁判をやろうというのでしょうか」(めちゃくちゃな論理)
173頁「結局、裁判員の入った裁判所は、何ら基準がなく、多数決で何でも出てくることになります。裁判の予測など、もちろんできません。めちゃくちゃ裁判の始まりです」
“君!国民にとって「狂った裁判官」が裁判するより、素人のほう がよっぽどましではないのですか?”

(2) 本コラムで、餓鬼みたいな低次元の論争をするつもりはありません。

もっとも彼もまともなことも言っており、それこそが根幹なのです。
175頁「司法とは、単に、裁判をやっていればよいのではなく、立法府や行政府の権限の乱用により侵害された国民の人権を回復するという重要な役割があります。その役割を実行するためには、民意からは一定の距離を保って法令のみに基づいて判断する裁判官が是非とも必要となります」
彼は、まともなことも言っておりながら、彼自ら司法行政に負けたというのです。162 頁「浅生所長のした裁判干渉もまたご多聞に漏れず、誰もいない横浜地裁所長室で 行われました」と言うのです。
“君!司法行政に屈する裁判官の姿とは君なのですか。”
こんな裁判官に国民の権利が守れるでしょうか。そもそも司法の最大の役目は、彼の言うとおり、立法府や行政府による権限の乱用から国民を守るということです。これが民主主義の根幹なのです。
 
二 裁判員裁判の理念
 
    「狂った裁判官」を書かれたエリート元裁判官も指摘されている通り、立法府や行政府の権限の乱用により侵害される国民の権利を守ることこそが司法の独立の根幹なのです。だから素人である国民が参加する司法制度こそ、司法官僚の独裁から解き放なたれる司法制度設計なのです。司法行政にひれ伏す裁判官よりも、自由な立場の国民が司法の場に参加してこそ上記権限の乱用を防止し、それ故に司法の独立が守られます。立派な裁判官もおられますが、その場合でも裁判の運用等の全てを素人即ち国民の目にさらすことによって、裁判官に“狂わない”でもやっていける環境を作る、逆に、裁判官が「国民に守られている」という自意識をもたせることに意味があるのです。

 もっともこれだけが裁判員裁判の趣旨ではありません。暫くは本コラムで、私の経験について書きたいと思います。 

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