新宿の顧問弁護士なら弁護士法人岡本(岡本政明法律事務所)
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コラム - 裁判員裁判カテゴリのエントリ
一 O.J.シンプソン裁判
1. 刑事事件と民事事件で異なった結論
(1) アメリカ、ロスアンジェルスやサンフランシスコに行き、O.J.シンプソン裁判を視察しようとしたことは前回話しました。
この事件を例にして、分かりにくい「無罪推定原則」について説明しましょう。「推定無罪」という本も出版されていますし、同名の映画もあるくらいですが、何だろうなと思われていてはいけません。
当コラムでも当たり前のように使ってきた言葉ですから。
(2) O.J.シンプソンは、刑事事件では「世紀の裁判」によって無罪になりました。しかし残念ながら民事裁判では殺人を認定する判決が出て、遺族に対して損害賠償することになりました。
O.J.シンプソンは刑事事件では弁護団「ドリームチーム」に依頼し、5億円は払ったと言われております。しかし本を出版したりして大分稼ぎ返したそうですが、民事事件では弁護団「ドリームチーム」に支払うお金を倹約し別の弁護士に依頼したと言われております。でも民事事件で8億円以上のお金を支払ったのでは割に合いません。
二つの結論に違和感をもたれませんか?
二つの結論の違いは、無罪推定原則があるからと言ってよいでしょう。もっとも法理論ではなく、刑事裁判では有色人の陪審員で占められていたこと、民事では白人の陪審員が多かったことの差異であるなどという論評もありますが。
2. 「推定無罪」とは
(1) 「推定無罪」とは、有罪と認定されるまでは無罪と推定されるという近代法の原則を言うとされています。刑事訴訟法第336条「被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言い渡しをしなければならない」という条文も同様の趣旨であります。
つまり有罪になる事実の提示は、国つまり検察官に責任があるという原則なのです。証明責任と言ってもよいでしょうが、検察官に「合理的疑いを超える程度まで証明する責任がある」ということを意味します。難しい議論をするつもりはありません。とにかく法律家は公知の事実とか、事実上推定される事実とか種々論じますが、最終的には「常識」でしかありません。前のコラムでも紹介しましたが、司法修習生の皆さんが信頼しえない結論を出すこともあるのです。皆さん、既に「国民の常識」に自信をもっておられますよね?
(2) 推定無罪は「疑わしいときは被告人の利益に」とも言い換えます。O.J.シンプソンは、刑事事件では疑問があっても、経験則に照らして「殺したね」とまで言えなかったので無罪になったのです。引き換え、民事裁判では双方が出してきた証拠、つまりその事実からO.J.シンプソンに分が悪いねという比較のうえでの相対評価なのです。つまり損害賠償を請求しているご遺族の提出された事実のほうに真実性があると陪審員が判断したということです。噛み砕き過ぎていると感じられる方は法律の入門書を読んでください。
私のコラムでは、裁判における判断は専門教育を受けていなくとも出来るという最良の証明材料として、O.J.シンプソン事件を引き合いに出して説明してみました。
(3) 蛇足かもしれませんが、私は、優秀な弁護士とは、その証拠即ちその事実を見つけ出してくる「粘り」にあると以前から本コラムで書いております。事実認定能力などという特殊な能力を匂わせる弁護士を信用してはなりません。判断に資する材料・証拠を「種々の工夫をして集め」、それを相手方・裁判所に提出し、しかもそれを「分かるように主張することができる」という事実が大切なのです。
今回で裁判員制度のコラムは終わりますが、「国民の常識は司法に適さない」と言われる元裁判官の方々の論評に呆れる私の気持ちを理解していただけるでしょうか?「素人のラフジャッジ」などという法律家は鼻持ちならぬエリート意識の固まりだと思います。
二 国民の司法参加こそ重要
国民の司法参加が不要という批判は、結論から言ってしまいますが、全て「お上」に任せてしまえばいいという流れになります。
現在の裁判所の実態を暴露する本の一冊でもお読みになれば、とても許されない結論になるでしょう。日本も随分民主主義が育ってきました。しかし「絶望の裁判所」から読みとれることは民主国家であるなどと胸を張って言えない裁判所が現実だということなのです。
上記事実は、行政に「えこひいき」をしているとしか理解しえない行政訴訟の認容率からでも直ちに分かることです。日弁連が出しております「自由と正義」(本年8月号)によっても「実質的な勝訴率となると(国から発表されている)グラフ2の数値(2012年は9.8%だそうです)から、さらに一段階低く数%になると推測される」(24頁)と書いております。行政訴訟を考えますと瀬木元裁判官が言われる「絶望の裁判所」がひしひしと伝わってくるのです。
三 まとめ
司法権も権力行使の一部であるという事実は争いようがないのですから、やはり国民の監視下にあらねばなりません。行政権や立法権だけでなく、司法権の独占も恐ろしいのです。
このように考えませんと、言いたいことも言えない戦前の国家制度に戻ることまで危惧されるのです。
立派な裁判官の方には「我々は、あなたを支えるために一緒になって裁判を行います。安心してください」と伝えましょう。
お電話でのお問い合わせ:03-3341-1591
裁判員裁判(その5 国民の負担が過大)
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1 その他の批判としては、事件の問題点が表面化されない仕組みになっていること(特に公判前整理手続)、裁判員が量刑に関与すること、裁判員に対する種々の負担(守秘義務等)等多々あります。これらは現行制度の修正として論じることが可能です。裁判官の説示は重要ですし、裁判の仕組みを知ってもらう体制づくりも重要です。私は高等学校に出前で裁判員制度を説明するため回ったこともあります。
2 各国の司法制度を見てきましたが、いずこの国においても幾つもの問題点が指摘されていました。全て満足などと言う制度はそもそも存在するはずがないのです。臨機応変の対応がなされるのは当然のことであり、その工夫が必要なことは「国民の常識」です。
3 前項にて述べました工夫ですが、司法制度改革推進本部時代に裁判員制度を中心になって提言された平良木登規男先生(ドイツ視察でご一緒しました)、四宮啓先生(O.J.シンプソン裁判を視察に行った際、当時カリフォルニァ大学バークレー校にて陪審裁判研究のために留学されていてお世話になりました)あたりに再度論陣を張っていただき、自ら提言されたことの総括をしていただきたいと思います。
4 逃げている訳ではありません。お二人の先生と著名な佐藤博史弁護士、森谷和馬弁護士と私が、東大総長であった平野龍一先生の研究室に呼ばれ、6名で新たな裁判制度を議論した日のことを思い出します。
「国民の負担論」はそれほど世間の納得を得ておりませんので、お二人に期待して前記事項の工夫をお願いすることで十分でしょう。
裁判員裁判(その4 国民の常識?)
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「陪審員の事実認定能力については、45件の回答中、『職業裁判官に比べて優れている』及び『遜色なし』とする回答が21件もあり、『職業裁判官に比べて劣っている』との回答(8件)を大きく上回っている」との結果が報告されております。
裁判員裁判(その3 デンマークの裁判制度)
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一 「陪審教徒」と「参審主義者」の歴史的和解の旅
1 第一東京弁護士会会報(平成9年8月号)
(1) 上記会報において、私は「デンマーク裁判所視察の成果」の題名のもと「陪審裁判制度論者と参審裁判制度論者の邂逅」と副題をつけて、デンマーク裁判制度を視察した一文を寄せております。同国では、両制度が矛盾なく円滑に運用されており、これまでわが国ではその詳細がつまびらかにされていなかった制度だったことから、参加者の皆が驚いた経験をしました。少し長くなりますが紹介しましょう。
(2) 「デンマークの裁判は、陪審裁判と参審裁判の両制度を採用し、同時に職業裁判官のみの裁判をも併用する特異な司法制度をとっております。誤解を恐れず率直に申し上げますと、あまり多くを期待しないで出かけた私には、大変学ぶところの多い視察でした。
これまでわが国の刑事裁判において、国民の司法参加を考える場合、陪審裁判が採用されるべきか参審裁判が採用されるべきか、まるで二者択一の如くに論じてきた我々にとって、まさしく画期的な旅行ではなかったかと推察しております。
即ち各制度がうまく運用されているデンマークの実態に触れ、これまで陪審・参審制度をそれぞれの立場から、他方を排他的に主張してきた我々のなかで、両制度の主張が融合されるかもしれないという予想がたった画期的な旅行でありました。
具体的に申し上げますと、国民の司法参加を積極的に実現させようと考える弁護士グループの中には、私が冗談に「陪審教徒」とお呼びする友人の方々、もう一方の弁護士グループで「参審主義者」とお呼びする皆様の歴史的な和解・融和がなされるのではないかと期待しうる程の成果をあげたのであります。」
(3) 詳細をお知りになりたければ、当時の視察記録として「デンマークの陪審制・参審制 なぜ併存しているのか」(日本弁護士連合会司法改革推進センター及び東京三弁護士会陪審制度委員会編 現代人文社)をお読みいただければいいのですが、本書は250頁に及ぶ力作になりますので纏めとしては、前項私の視察報告書が適当でしょう。
「私たちは、これまで陪審・参審制の双方を勉強の課題として各国を巡ってきましたが、我々の間では双方の制度が互いに相容れない制度として論じられてきた傾向がありました。
特に、国民の司法参加としては参審制が理想の形ではないかと信じる私の立場に対して、保守反動のごとき批判がなされることもございました。陪審制主張の論者の中には、時にしてこのような性癖の方もおられ、私なりの反論もしてまいりましたが、最近は面倒臭くなってきたというのが正直な感想であります。即ち本視察旅行が色あせ始めていたのです。
私個人としては、司法制度に関する国民の司法参加について他の制度目的をも考慮にいれ、多少でも切り口を変えれば、陪審制のみが至上の制度でないということは明白だと考えております。
2 陪審裁判が至上の制度か?
(1) 陪審裁判は「隣人による裁判」であります。アメリカのように多種の民族が共存するモザイク国家では、他人に対する自由の制限・束縛は、裁判という仕組みを通し、隣人の認定によってのみなすことができるのです。結論から言うなら、自由であるべき他者を束縛するためには、隣人による裁判と言う仕組みによってのみしか認められないというのが民主主義なのです。自由はその限度でのみ制限されるという納得に基づいて隣人と共存し、誰もが生存できるというのが人類の知恵であります。これが法として整理され、法治主義にまで論理が発展するのです。
であるなら多数に溶け込んでいる人々は、シンパシーを共有されることが可能な「隣人と言う裁判官」によって裁判手続を受けることが可能です。しかし隣人と縁の少ない人、即ち、何らかが隣人と異なる少数者は、隣人と言う裁判官のシンパシーを享受することができません。「冤罪」はこのような理由から発生することが多いのです。
(2) 日本の文化と比較しますと、アメリカの権力に対する国民監視の認識はやはり圧倒的に進んでおります。日本の官僚に対する批判を、日本の資料からは明らかにしえず、アメリカの公文書を検証して、逆にその事実を示しえた経験からも明白な事実です。
アメリカでは証拠を保存しております。DNA鑑定の技術が進歩し、保存されていた証拠を再検証したところ(日本で出来ますか?)服役している人々の中から、何と冤罪が311件にも上るという報告もあるくらいです。それを題材にした小説もありますが、散漫になるので紹介しません。
冤罪の多くが隣人と異なる少数者だと言えば驚かれませんか。皮膚の色が異なる人、或いは共産主義者のレッテルを張られた方々がその中心になるのです。陪審裁判の弊害の一つがここにあります。
(3) ここで絶対に紹介しなければならない制度がデンマークの陪審制ダブル・ギャランティの制度なのです。デンマークでは冤罪の危険を回避するため、二重の保障(ダブル・ギャランティ)と言う制度を取り入れております。陪審員が有罪とした場合に、職業裁判官が事実に基づき証拠が不十分と判断したときは無罪とすることができるのです。逆の陪審員の無罪判決には裁判官も拘束されるというのですから、推定無罪の原則が貫徹され、冤罪の防止に寄与します。
我々の視察時、偶然陪審有罪評決を裁判官が破棄するというデンマークで三度目の場面に遭遇したのです。翌日のデンマークの新聞もすごかったが、我々の興奮度をお伝えできないのが残念です。
二 「自分の生き方は自分が決める」と言う方は少数者?
皮膚の色が違うという方は日本では少ないが、しかし時の権力者に抑圧される考え方をするかもしれないという皆さん!(それを宗教や思想と言うこともできる)、弾圧する側と同じ思考パターンの多数者に判断を委ねる「隣人の裁判」を受けたいでしょうか?
私は生粋の日本人ですが「自分の生き方は自分が決める」という日本の文化人が生き様とする家庭のもとで育ちました。他人と違うということは気にはなりますが、生き方までは変えたくありません。シンパシーのない隣人に裁判されるくらいなら「事実のみを証拠とし、その事実のみから結論を推測し、その推測の過程は法律のみに基づいて裁判」をしてほしいのです。もちろん自己の責任は引き受けるつもりですが・・。
一方、判決と言う結果は、国という権力により担保されています。ですから裁判といえども、国民の批判にさらされる必要があります。
陪審裁判について、私のような懸念を漏らされる日本の弁護士は残念ながら存じ上げません。
次回(その3)は待望の「デンマーク視察」ですが、この調子ですと、次々回(その4)は「国民の常識」がテーマにならざるを得ませんね。
裁判員裁判(その1 元裁判官の出版本)
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(1) 裁判官の実態を明らかにする本が、最近顕著に増加しています。特に裁判官が普通のサラリーマンと変わらず、しかも権力に弱い司法官僚であり、最高裁の司法行政に振り回される内幕を暴露する本が世間受けしているようです。
(2) 同じ暴露本のつもりであろう「狂った裁判官」と言う本はカスです。読んで損をしました。「内容がむちゃくちゃ」と批判すると「価値感が違いますからね」という元エリート裁判官からの反論も予想できますので、実務家として失格と言う事実を示します。
彼は、多分、心底では自分を勉強家であると思われているでしょうが、わが国で陪審裁判が行われていた事実すら勉強されていない事実に呆れます。わが国陪審法は、大正12年制定、昭和3年10月に施行、同18年4月に停止されております。
(1) ひどい裁判官が多いという内情暴露はいいでしょう。だから「狂った裁判官」という表題で本を出版されたのでしょうから。
(2) 本コラムで、餓鬼みたいな低次元の論争をするつもりはありません。
もっともこれだけが裁判員裁判の趣旨ではありません。暫くは本コラムで、私の経験について書きたいと思います。