一 裁判員裁判における国民の負担とは
1 国民の負担が過大という批判は制度論なのか?
(1) 次に、制度論に関係する批判として「国民の負担が大きい、人権侵害だ」という論点です。
この論点に関しては、既に最高裁判決(平成23年11月16日大法廷判決)も出ておりますが、残念ながら、今後も繰り返し訴訟等で蒸し返されるものと思われます。
そもそも上記論点については、現在裁判員にかかる負担内容やその程度を検討することにより克服できるはずだと既に当コラムで書いております。しかし、上記主張をされる方は、残念ながら弁護士にもおられます。したがって、今回上記論点を再吟味してみましょう。
国民の司法参加を理念とする限り、避けて通れないジレンマですが、結論から言いますなら、現時点では、負担軽減の工夫をすることによって弊害を減らす方向で十分であると考えられます。最高裁判決にまで触れませんが、それで十分納得いただけると思います。
(2) 各国の陪審裁判における「国民の負担」を見て回りましたが本当にすごいものもあります。負担などと言う言葉の埒外でした。
一例を挙げましょう。「世紀の裁判」といわれる「O.J.シンプソン裁判」を実際に見るため、ロスアンジェルスにとびました。無罪評決の日から丁度1週間遅れました。行く前から分かっていたことですが、日本と全く違い、裁判公開法廷は全て専門テレビ局のブラウン管を通して世界中で見られました。しかし負け惜しみでなく、弁護団「ドリームチーム」の驚くべき話等を聞けたことは、その後の自らの刑事裁判でも役に立ったと思っております。
「世紀の裁判」では、陪審員が選任されたのは1994年11月7日、陪審員が世間から隔離されたのは翌年の1月11日からです。隔離は知人、新聞或いはテレビ等に影響されないようにするものですが、陪審員の評決が下されるのは約10カ月後の10月2日なのです。陪審員で解任された者は10名にも及び、陪審員は長期間ホテル住まいまで強制されました。これも民主主義だというと怒られるかもしれませんが、これほどでなくとも「国民の負担」は大変なのです。
(3) 以前、コラムで「国民の義務」だと書いたことについては反省しております。これは国民の権利行使の側面から論じるべき話でした。
心配になった理由ですが、裁判員になることも「国民の義務」と説明しますと、兵役の義務(徴兵制)や憲法改正にまで議論が発展しそうです。義務論では安倍総理(石破さんか?)に利用されそうで嫌なのです。国民主権者として権利行使の側面から論じましょう。
2 死刑判決の評議は負担か
(1) 本年5月19日、日本経済新聞は「裁判制度 揺れる死刑」と題して裁判員制度が始まって5年、これまでの死刑判決は21件があり、高裁が死刑判決を破棄したものは3件であると報じています。
(2) 早速「袴田事件を裁いた男」、副題として「無罪を確信しながら死刑判決文を書いた元判事の転落と再生の46年」と付けられた本を読みました(朝日文庫新刊)。でも元判事の苦悩は分かりませんでした。元判事は、死刑判決でなくても「転落」されていたのではないでしょうか。「転落」は他に原因があるようにしか読めません。
(3) 我々隣人が、死刑判決も必要だと認めるなら(法律があるなら)、誰かが死刑だと言い渡さないといけません。しかし死刑判決を言い渡すことは自分の主義・信条に反するから、拒否すると宣言されるなら、それもありでしょう。その方に不利益が発生するのかどうかは別にして個人の自由です(不利益を負わせない工夫は別の論点)。しかし憲法違反という批判には法治主義からは何処にも論理性が見出されません。しかしそれでも主張される方は、死刑廃止論を主張されるべきです。この論者の弁護士が死刑廃止に熱心だとは聞きませんし、証拠の見せ方の工夫等も提案されておりません。変です。
二 その他の問題点
1 その他の批判としては、事件の問題点が表面化されない仕組みになっていること(特に公判前整理手続)、裁判員が量刑に関与すること、裁判員に対する種々の負担(守秘義務等)等多々あります。これらは現行制度の修正として論じることが可能です。裁判官の説示は重要ですし、裁判の仕組みを知ってもらう体制づくりも重要です。私は高等学校に出前で裁判員制度を説明するため回ったこともあります。
2 各国の司法制度を見てきましたが、いずこの国においても幾つもの問題点が指摘されていました。全て満足などと言う制度はそもそも存在するはずがないのです。臨機応変の対応がなされるのは当然のことであり、その工夫が必要なことは「国民の常識」です。
3 前項にて述べました工夫ですが、司法制度改革推進本部時代に裁判員制度を中心になって提言された平良木登規男先生(ドイツ視察でご一緒しました)、四宮啓先生(O.J.シンプソン裁判を視察に行った際、当時カリフォルニァ大学バークレー校にて陪審裁判研究のために留学されていてお世話になりました)あたりに再度論陣を張っていただき、自ら提言されたことの総括をしていただきたいと思います。
4 逃げている訳ではありません。お二人の先生と著名な佐藤博史弁護士、森谷和馬弁護士と私が、東大総長であった平野龍一先生の研究室に呼ばれ、6名で新たな裁判制度を議論した日のことを思い出します。
「国民の負担論」はそれほど世間の納得を得ておりませんので、お二人に期待して前記事項の工夫をお願いすることで十分でしょう。