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裁判員裁判(その2 コラムの題材として適当か?)
- カテゴリ :
- 裁判員裁判
一 裁判員裁判制度を論じることは政治的な題材か?
1 政治的な題材は嫌い
(1) 前回紹介した小説「法服の王国(上、下)」では実名で多くの方が登場します。代議士として実名で登場されているご子息に、大変お世話になりました。この方からは、私の司法試験に対する姿勢を根本において矯正していただきました。この方なくして、私は実務家としての在り方を意識できなかったでしょう。
昔の私は、当時の学生運動の華やかな時代に即応して、十分に政治に埋没しておりました。大学に行かなくなってからも、卒業したのかどうか分からないモラトリアム人生でした。東京都美濃部知事選挙当時、受験生だった友人の下宿先で答案の書き方の話をしていながら、「こんなこと、やっていていいのか」と無性に怒りを感じたことが昨日のようです。学生時代に引きずられた毎日でした。確かに答案練習会には出ましたし、答案を議論する仲間もできてきましたが、一方徹夜麻雀や労働組合関係の支援もしておりました。30代直前の列島改造ブームの頃には、丁度サラリーマンでしたから、石油ショックで経済が沈没するまで、「下品ないい思い」も経験しました。
(2) 法律を教えてもらった「この方」との出会いですが、30歳の結婚を契機に、真面目に司法試験を受験するしかなくなった私が、当時有名な中村法律研究所に合格し、始めて集団で司法試験の勉強を始めた最初の頃です。研究室には、当初背広で通って笑われました。
入室すぐに論文指導があって、その方から「あなたのような学生運動の延長上で書いた論文では絶対に受からない。政治的な思考が出ています」と言われ、細かい指導を受けました。ビックリしました。もっとも「何故活動家だって言えるの?」とは思いました・・。この方は後に山口県から社会党の代議士になられたくらいなので、きっと同じ過去をもっておられたのでしょうね。今でも当時の指導の詳細を覚えております。
(3) それからは理念ではなく実務家たらんと努力しました。法の枠から出てはいけないと自戒しました。何時の間にか政治的な思考と実務家の区別も分かり始めてきたように思います。
意識したことは「事実(裁判では証拠)から立論し、その事実から推論はするが、事実から飛躍はしない。その推論の過程は法律による」というものです。このような区別を意識する必要がなく容易に司法試験と言う暗記勉強のできる人も私の周りにはたくさんおられました。このような秀才、言葉を換えれば器用な方は、頭はいいのでしょうが私は好きではありません。詳しくは書きたくありません。つまり、私は「法服の王国」の著者のようにはなれません。
こんな経験から、本コラムでは政治的な話は書きたくないのです。
2 裁判員制度を論じることは政治的でしょうか?
司法とはいえ、制度なのですから、「あるべき論」から考えると、やはり政治的議論だと判断しております。しかし許されるという立場から見ますと、司法制度の設計なのですから、司法に携わる我々実務家が議論に参加することには意味がある、否、義務があるはずです。
誰も関心を示さなかった当時、世界の司法制度を見て廻り、且つ模擬陪審裁判に没頭した昔の自分を振り返りますと、やはり実務にのみ埋没できなかった自分は「三つ子の魂百まで」だなと実感します。
当事務所副所長は、このコラムに対して言いたいことはあるでしょうが、陪審裁判と参審裁判の両方を取り入れているデンマークの裁判制度を説明するなら許してもらえるでしょう。今から考えますと、このデンマーク視察報告書なくして現在の裁判員裁判制度は生まれなかったのではないでしょうか。このように推測される事実も後に説明しましょう。
二 裁判員制度に対する批判
1 種々の批判
批判の内容を調べますと制度の根幹に対する批判は殆んどありません。不思議ですね?
多くの批判は制度論と言うより、国民の負担が大きいというような弊害に対する疑問提起が中心です。これは司法制度の在り方に対する批判と言うより、弊害をなくする工夫によって乗り越えられるものです。
もっとも陪審制を提案される方からの批判は、国民の司法参加という理念において共通しており、デンマークの司法制度を見ていただくなら批判になどなりえないのです。諸国の司法制度を共に視察された先生方は、国民の司法参加の態様によって、その国がどの程度の民主主義か分かるとまで感じておられるはずです。
裁判官内情暴露本の一つだと判断されます「絶望の裁判所」(瀬木比呂志著 講談社現代新書)では、このような趣旨において陪審制の主張をされております。この点において、買って、読んで良かったというのが私の感想です。
2 国民の負担が大きいか?
国民の負担が大きいというような批判は私の体質に合いません。そもそも私は多くの事件を通じて、日本においても自分だけ良ければいいという雰囲気になっていることに危惧を感じております。隣の大国の国民のように、自分さえよければよいという自己中心主義の世界は嫌なのです。
私は、司法という場を裁判官による独占から排除する制度こそが必要であると信じて世界の裁判制度を調査して廻りました。そしてその経験から、国民の負担が大きいなどと言って甘えることは許されないと思います。これは裁判に関与する各国の参加者も話していたことです。国民の負担は、結局は民主主義の深まりによって論じられることだと思います。その例の一つですが、デンマーク視察に行く前年、当事者主義訴訟構造での参審裁判の実態を見たいと考え、スウェーデンを視察しました。スウェーデンでは、日本では不十分な行政監察制度であるオンブズマン制度が機能しており、参審制度とよくマッチしておりました。
3 再度国民の義務論
私は、裁判員になることも「国民の義務」だと考えています。自力救済?のコラム、私の大学時代の憲法答案のような「落ち」になります。しかし、それでも国民の負担として過重だと言われるなら、国民の負担を減らす工夫をされるべきではないでしょうか。素人に量刑を決めさせることが問題だと言われるなら、この論点をクリアする陪審制度を一部取り入れることすら可能なのです。国民の司法参加と言う視点において、陪審制と参審制が対立しない裁判制度であることを、殆どの弁護士は知ろうともしません。
4 最後に付加しておきますが、国民の常識が信用できないという批判は根本がおかしい。裁判は法に基づいて行うものであり、恣意に行うものではありません。この批判は、裁判がどういうものかという中学校レベルの教育の問題であり、ひいては常識がないとされる親や友人に唾するものであります。親や友人に常識がないなら、民主主義など語らないでください。
次回(その3)は待望の「デンマーク視察」ですが、この調子ですと、次々回(その4)は「国民の常識」がテーマにならざるを得ませんね。